Am7♭5

うたかたの日々

ちょっとソーシャルシステムに関してFaceBook考

 うっかり、FBのフレンド検索でスカイプアカウント入れて検索したら友達欄がぐっと増えたのでプライバシー設定を最強にしてみた。最強にすると。当然ですが私がフレンドとして承認した人にしか。私のウォールが公開されません。よって匿名且つほとんどの情報を非公開にしていることでほぼ私個人を特定する事は不可能です。(ま、簡単に言うとルール違反です)
 なぜSNSなのにそんなに頑なに実名や個人情報をを非公開にするかと言うと、SNSの特性として、私の発信がやはり他の方の目につく機会が増えツール上では、会話の量のコントロールが出来ないからです。「グルーピングして鍵かければ?」という問いには「それは面倒です」と答えます「じゃー使うな」と言う意見もあるでしょう。でもその問いは簡便してください。その会話量をコントロール出来ればこれほど優れたツールはないというのも本音なのです。以下は言いわけです。

 まず私はソーシャルとはいえ知人らしき方がどんどん増える事に抵抗があります。長いことインターネット上のシステム開発の仕事をしていますがどうもネット上で闇雲に繋がっていくのが単純に苦手なのです。そして次に、常々思うのですが、リアル、インターネットとか無関係に友人なり知人との会話にはその人個別にあった会話の適正量と申しますか、知る知らせるに関する許容量があると考えます。それは100人知りあいがいれば100通りの会話があるのと同じで元来個別にコントロールすべき量だと思ってます。電話ぐらいが電信のツールとしてしかなかった時代はそれなりにやり過ごせた事も、このようにインターネットという媒体で非同期に繋がれるようになるとその個別への絶対量のコントロールがとても難しい事になったのです。どういう事かと申しますと。自分の発言なり考えが、その人との関係性を無視して均一にそして一方的に伝わる可能性があるという事です。全ての人が真剣に私の意見を読んでいるとも思えないのですが。まあ、ある意味他人という物は他人に対して自分の意図しない一面を期待したりするものです。ある程度の人間関係が構築されていればその辺の基準に関しては寛容に迎えられるのですが、中途半端な関係だとその許容は極端に狭まります。だから私の発する情報によっては、私が意図しない結果として一人歩きする事もあるのです。私はそんな極めて気まぐれで言いわけの難しいコミュニケーションをわざわざインターネット上でするほど器用ではないのです。
 でもこうも思います、本当にこのようなツールが発展して遠隔に済む友人との会話ができる事は私が知らせたい情報の発信を満足させる事が出来、さらに相手の情報を得るのには最適ですし素晴らしい事だと思います。コミュニケーションの発展だとも思います。みんな忙しいし昔のように自由な時間は膨大にはないですしね。あとなにか特に伝えたくなくても、今こんな事考えているとか、相手がこんな事考えているんだーとか「わざわざ伝えあう」のではなく「なんとなく感じ会える」というのがとっても魅力的です。それがまさに出来るのがソーシャルネットワークのの醍醐味であり魅力かなーなんて考えます。
 そんな魅力を感じながらも、ここが私の問題でもあるのですが、私がある程度立ち入った事を知って欲しかったり、共有してもらったり、更には相手の事を知りたかったするのは実際はごくごく少数の方たちのみなのです。そしてこれは、ここ5年ぐらいでぼんやりとわかってきた事なのですが多すぎる情報で主体的に欲しない情報を得ると、お互い中途半端なリアルの知りあい(一度しか会った事ない方、仕事のみの関係の方など)の方とは本当にお会いした時に会話が無くなったり、会話がないくらいならいいのですが、ある種の限定的なイメージを持たれていたりして、微妙な関係になる事が多いのです。

 だから申し訳ないですが、フレンドの招待に関しては私は明確に選別させて頂いています。たぶんこの手の選別の根底には大袈裟ですがファシズム的思想が横たわっているのも充分承知です。おまえは心が狭いと言われてもかまいません。でも私はこれほどまで機械的に無味乾燥に友人をセレクションして半ば強引に友達関係を強要してくるシステムってどうなのかな?と思わざる得ません。システムとして優れているのは認めます。が、世の中はシステムで画一化するほどまだシンプルではないのです。だからどうしても、匿名性の担保と情報の閉鎖をして機械的にマッチングさせない必要があるのです。「実名で拒否すれば?」という意見があるかも知れません、簡便してくださいそこまで大胆な人間ではありません。「じゃーやっぱ向いてないし辞めれば?」という事に関しては、「はい全ての情報が不要になった時に考えます。」そんなこんなで私は友達100人もいりませんと思っているのです。